昭和の時代。ケータイもメールもなく、インターネットもなかった。PCは会社の事務所に置いてあるくらいで、「一人一台」という普及率には及びもつかなかった。それでも人々は日々を楽しみ、幸福に暮らしていた。それから30年近い年月が過ぎ、私たちの生活は格段にスピードアップされ、進化し、便利になった。
だが、便利になることと「幸福」、あるいは「喜び」や「楽しみ」は、必ずしも直結しない。不便であるがゆえに必要な手間や時間、見えない部分を想像力で補うことなどが、かえって楽しみを生むことも少なくないのだ。
白砂を敷き詰めた庭園に雄大な山河の光景を映し出すことは、現代の映像技術で可能だろう。それをよりリアルに、立体視させることもできるかもしれない。
|
|
だがそれで「凄い技術だな」という驚嘆を得られたとしても「楽しさ」「面白さ」につながるかどうかは疑問だ。むしろ何の変哲もない庭石ひとつをポンと置いたほうが、私たち人間の想像力は大いにかきたてられ、そこから無限の楽しみが広がっていくのである。
人間には「想像力」という逞しい翼がある。その存在を忘れてしまっては、いまここにあるものしか見ることができない。だがその翼を力強く羽ばたかせるとき、千里の彼方を一瞬で飛び越え、見えないものまでも見ることができる。それこそ人間に許された「素晴らしい遊び」なのではないだろうか。
|